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2008年 05月 29日
ノーベル文学賞受賞が記憶に新しい(っていうか私がしつこく紹介してきた)オルハン・パムクが来日していたことを知らず、東京新聞での対談記事を見てびっくり。対談、じゃないか。青山学院大学で講演し、その後は会場で作家かつ詩人の辻井喬と「対話」したらしく、その内容が紹介されていた。
辻井喬って誰?と思ってしまった自分が恥ずかしいけれど、セゾングループの実質的オーナー、かの西武一族の堤清二その人の、もう一つの顔なのだ。西武グループ創立者である父親に反発し、学生時代は共産党に入党、その後は文学へと傾倒していくものの、結局は実業家として西友にパルコ、無印良品などをガンガン展開していくというあたり、なんかこう非常に「引き裂かれた感」がある。その引き裂かれた両者の葛藤や、一方の一方への赦しなどが彼の文学の源であるらしいが、読んでないので分からない。ただ最近では、護憲派として盛んに意見表明したり、さらには消費社会批判の本を出したりもして、その分裂ぶりにはある種の悲哀を感じる程だけど、その悲哀こそがブンガクと言われれば、まあそういうこともあるのだろう。 さておき「対話」である。これが感心しちゃうほど噛み合ってない。まずは司会者(辻井ではない)が、小説『雪』は現実か、ファンタジーか、と見事なまでにトンチンカンな質問をし、それにパムクは「それを問うと私の小説を殺すことになる。私の小説の美は、現実とファンタジーの間にある」と答え、まるで下手に仕込まれた芸人のネタのようで笑う。 そして、ありゃりゃーな雰囲気は、辻井とパムクのやり取りにそのまま引き継がれる。辻井は「社会に異議を唱える姿勢がないと文学作品は生まれない」とし、パムクの小説を「いろいろな人が現実に対して異議を唱える。一人一人が主人公で社会に目を配った小説」と言う。辻井の言葉は、それなりにもっともな感じもするけれど、どうも彼の「社会」理解が平板な気がしてならない。まるで「社会」の「現実」は一枚岩で、個々人はその同じ現実に対してそれぞれ「異議」を唱えている、とでもいうように。でも辻井の経歴に照らし合わせれば、こういう社会理解は彼にとっておそらくごく自然なものだ。彼が異議を唱えるべき「社会」は、自らが片足をつっこんできた(それもズブズブに深くつっこんできた)資本主義消費社会であり、実業界であり、西武グループであり、父なる全てのものだったのだろう。父的なものとの決別、克服、そして赦しは、それはそれで文学の一大テーマ足りうるけれど、どうも辻井は彼個人の内面の葛藤にとらわれすぎているように思われてならない。彼が対峙してこざるをえなかった「社会」のあまりの大きさに飲み込まれ(そりゃそうだろう)、一人一人を取り巻く「社会」というものの多様な側面をきちんと見ていないんじゃないか。 案の定、パムクからは「小説家の仕事は問題の解決策を見つけることではない。(中略)一つとして同じでない個々人の痛みや幸福を描くこと」と牽制される。『雪』の舞台は、トルコ辺境の小さな町であり、小説中の一人一人にとっては、その同じ小さな町こそが彼らの「社会」ではあるものの、その内部は重層的で幾重にも複雑に交差し、誰にも等しく均質な「現実」があるわけではない。 さらに話題が「東洋の近代(西洋)化」にうつると、辻井が無邪気(?)に『源氏物語』を持ち出してきて「日本的、ヨーロッパ的ということを越えた一大小説。完全な西洋人も東洋人もいない。東洋とか西洋という概念で分類すること自体意味のないことでは」などと言いだす。対してパムクは「幸か不幸か、文化はグローバル化してしまった」と前置きをした上で、世界のどこでも小説は人間を理解する手段であり、国境を越えて小説をより発展させていかなくては、と答えるのだけれど、この「幸か不幸か」という前置きを、いったい辻井は、そして私も含めたすべての日本人は、どこまで肌の感覚として分かっているかと思う。「東洋とか西洋とかいう概念で分類すること自体意味のないこと」などという、繊細さのカケラも感じられない発言が、なぜ出来るのか。東洋とか西洋とかいう概念が含む問題性は、その概念を「意味がない」と退け、なかったものとして、社会を一足飛びに同質のものと看做すことで丸く収まるようなものなのか。 「私は友情と理解と連帯を信じる。世界が私のホーム」とのパムクの発言には、会場から拍手がわいたそうだ。パムクが、彼の現実の困難さを抱えつつ、それでもあえて「信じる」と言うことの重さと、私たちが耳慣れしてしまった「世界は一家、人類みな兄弟」という某ファシストS川良一によるスローガンの安易さを、まさか同一視する人はいないだろう。とは言うものの、グローバル化といえば「幸か不幸か」の「不幸」の部分を見ないようにして、臆面もなく「発展」とか「進歩」とかプラスのイメージが強調されがちな日本においては、さもありなん、という気もしないこともなかったりする。ふー・・・。 参考:東京新聞 2008年5月26日(月)夕刊 『ノーベル賞作家 オルハン・パムク氏との対話』
by jukali_k2
| 2008-05-29 23:38
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